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東日本大震災から10年経ったので語ります。


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今年で東日本大震災から10年が経ちました。あの時、生まれたばかりの子供たちは、今小学3-4年生になっていると考えると、改めて時の流れの早さを実感します。昨年も、下記のような震災に関しての記事を書きました。

今、改めて10年という時を経て、あの時のことを書かせていただきます。

 

震災の日

2011年3月11日、私は大学のサークル棟にいました。大学は山形の内陸部であり、バスで1時間の位置に仙台があります。3月にも関わらず寒さが厳しく、雪が降るという予報が流れていた記憶はあります。アカペラの練習をしている最中、時刻は午後2時46分に突然揺れは発生しました。最初は、「あ・・地震だ」と揺れを少し感じる程度と思っていましたが、急に突きあがるような揺れ、そしてバチバチと火花を散らす蛍光灯、立っているのもきついくらい大きな揺れが襲い、これはただ事じゃないとすぐに理解しました。

 

サークル棟はプレハブ状の2階建。より揺れは大きく感じます。むやみに歩くのは危険と感じ、サークル室にいた5人には動かないよう指示を出し、私は避難指示が出ているか確認するためにサークル棟を出ました。入り口まで真っ直ぐに歩くことすらできず、70キロ以上ある私の身体が簡単に飛ばされ、廊下の壁に何度もぶつかりました。ようやく外に出ると、春休みでサークル活動や研究をしていた学生が外の広場に大勢集まっていました。サークル棟にいたメンバーも合流し、互いに無事であることに安堵していました。翌日サークルライブを控えており、「これは中止だな」と話をしていました。この時代、スマートフォンを持っている人はおらず、情報はガラケーに表示される文面上のニュースのみ。岩手、宮城での震度7という情報を確認し、揺れが大きかったんだ・・・と驚いている間に、まさか津波が襲っているなんて予想もしませんでした。

 

当時、ワンセグ搭載のWalkmanを持っていた私は、すぐにワンセグを繋いでニュースを流しました。その映像は津波によって大量の車が流されている様子でした。デイアフタートゥモローという映画をご存知でしょうか。地球が自然災害によって壊滅していく様子を描いた映画です。まさに、同じようなことが現実で起こっている、いや起きている事実を素直には受け止めることができませんでした。よく覚えてはいませんが、ワンセグ搭載のガラケーを持っている学生も少なからずおり、遠くから映像を見た女子学生の悲鳴や落胆する声が聞こえていたように思えます。それよりも、自分の中での「なんだこれは・・・」という声が大きく、周囲の音に気を使っている場合ではありませんでした。予報通り、雪が降ってきました。あの時の私は、この世の終わりだと何度も思っていたことでしょう。

 

街は停電、信号も作動していません。時刻は17:00頃、いつの間にか時間が経っていたことに気づき、友人5人と食料確保に動き出しました。日は長くありません、車のライトに照らされたコンビニや小さなドラッグストアには食料を求めて人が駆け込み、店員が手計算で電卓を叩きながら会計をしていました。少なからず食料を確保した私たちは、大学近くで一人暮らしをしている友人宅に5人で宿泊。貴重な情報源であるWalkmanは必要な時に使うようにし、ガラケーで情報収集。毛布に包まり、薄暗い部屋で会話をしながら不安を紛らわしました。

 

「そういえば、サークル室にラジオのついた懐中電灯あったよね」

 

時刻は忘れましたが、日が変わる頃に私と友人2名で、徒歩10分の大学に再び向かいました。ロウソクの灯が窓から溢れる家がいくつもありました。街は誰も歩いていません。地面は雪で覆い尽くされ、雪を踏みしめる音だけが響きます。雪が降っていた空はいつの間にか晴れ、久々に街中で星を見たなと思っていました。懐中電灯を確保すると、寒さに震えながら家に持ち帰り、小さな灯で過ごしました。本当に小さな灯でしたが、私たちにとっては貴重な灯でした。再びワンセグでニュースを見たときは、千葉の沿岸部でタンクが燃えている映像でした。夢なのか現実なのかわからない、だけどこのまま布団で寝て朝を迎えれば、何事もなかったかのような日々に戻れるのではないか。今思えば不思議な感覚でした。ただ、その日はほとんど寝ることができませんでした。

 

震災の次の日

日が昇り、近くのコンビニにある公衆電話へ。実家に電話をかけると親が出ました。山形の沿岸部の実家は無事だったのかと実感した瞬間でした。私は別のキャンパスに当時通っており、そのキャンパスがあった米沢市は新潟からの電源供給だったためインフラは平常でした。米沢から友人に迎えにきてもらい、私は自分の家に帰宅しました。

 

初めて大きな画面(と言っても20インチくらい)で震災のニュースを見ました。襲う津波と、各地の被災状況、交通情報そしてACのCM。ただ、夕方に流れたニュース映像が最も衝撃でした。福島第一原発の第一号機水素爆発です。瞬発的な爆発は全国ニュースで流れ、米沢市が福島に近かったこともあり、放射線がここまで来ないかと不安になったことを覚えています。そして3/16の3号機の爆発は黒煙の規模大きめの爆発。ここで実家に避難することを決意しました。ただ、交通網の復活を待つ必要があり、その間にも余震は続き、アパート全体を揺らし、窓が割れるのではないかと不安を掻き立て、まさに恐怖でした。震源地にいた被災者の方々に比べれば、小さな出来事かもしれません。それは自分でも十分理解してます。ただ、あのときは何が本当の情報がわからない混乱が続いた日々でした。スーパーからは食材が消え、近くのガソリンスタンドにはレギュラー200円近くにも関わらず渋滞が発生し、いつの間にか雪は溶けていました。

 

震災から3年後

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石巻市気仙沼市を訪れました。石巻市を訪れた際は大学側の企画として参加し、津波を襲った小学校を見ました。窓ガラスは当然なく、真っ白な雪の中に建つ小学校は当時の様子と変わらない姿のままでした。この小学校は門脇小学校であり、近くの裏山に在席生は避難し無事でしたが、下校していた7名の尊い命が奪われました。この近くには大川小学校があり、児童74名と教員10名が被害にあい、そのほか、学校に避難してきた地域住民や保護者、スクールバスの運転手が亡くなっています。当時、避難について現場では揉めており、学校に止まるかどうか躊躇した最中に津波が襲ったとのこと。訪れた石巻市は、真っ白な雪で覆われて、ここには何もなかったのではないかと思うような光景でした。

 

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気仙沼市を訪れた際は、一人で唐桑町に行きました。道中、第十八共徳丸が姿を現しました。写真は実際に現地で私が撮影したものです。決して海からは近くありません。なぜここにこんな漁船があるのだろうかと目を疑うような光景でした。そして、その周囲は永遠と瓦礫が広がり、住宅の基礎を支えるアンカーボルトがへし曲げられていました。木造住宅は波が襲った際、内部に水が入ることでお風呂に洗面器を浮かべたような状況になります。そのため浮力によりそのまま基礎を残して浮かび、流されて行きます。鉄骨造は骨組みはぐちゃぐちゃになり、無残な姿を残していました。まっすぐに続く道の両脇には、たくさんの住宅があったことでしょう。さっきまで料理をしていたのではないかと思う料理道具。小さい子供が遊んでいたと思われる人形、そしてタンスなども散乱しており、生活の描写が見えてくるかのような光景でした。

震災から10年

私は東京にいます。今日の午後2時46分には追悼式典の模様がニュースで流れました。テレワークのため、自宅のテレビでその模様を流し、静かに黙祷を捧げました。春がもうすぐ来るのではないかと感じさせる、そんな温かい天気でしたね。青空に雲が少し浮かび、風も穏やか。あのとき見た雪は降っていません。1分の黙祷の間に、当時の出来事や石巻市気仙沼市で見た光景が脳裏に静かに流れました。10年が経ちましたが、風化させてはいけないことがたくさんあります。私は被災地にはいなかった人間ですが、私が体験した東日本大震災を、将来子供にも伝えて行きたいと思います。

 

それが、10年経った今の思いです。